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第5回「心に残る、ありがとう!」体験談 贈賞式

最優秀賞 三村 英彰 (みむら ひであき)

「あたたかな右掌と「ありがとうな」の記憶」

優秀賞 島 幸司 (しま こうじ)

「父へ」

原 文典(はら ふみのり)

「お母さんの子どもで良かったよ」

今回も多数の応募をいただきました。そのなかから、厳正な審査で入選作10編を選び、2015年1月20日、ホテルグランパシフィック ル・ダイバにおいて、中西進氏(選考委員長・国文学者)、夏樹静子氏(作家)、山折哲雄氏(宗教学者)による公開選考会を行い、上記のとおり決定しました。
最優秀賞及び優秀賞につきましては、『理念と経営』3月号に掲載いたします。



入選者
「心に残るありがとう」 伊藤 武
(いとう たけし)
「我が家の大黒柱」 翁長 ちひろ
(おなが ちひろ)
「先生あのね」  柴 祐美子
(しば ゆみこ)
「私を迎えてくれた家族、ありがとう」 曽田 ゆかり
(そた ゆかり) 
「天国にいる皆にありがとう!!の手紙」 生川 恭子
(なるかわ きょうこ)
「今では伝えられないありがとう」 花里 佳治
(はなざと よしはる)
「伝えられなかった「ありがとう」」 山口 紫都香
(やまぐち しづか) 
三村 英彰「あたたかな右掌と「ありがとうな」の記憶」

私が大学を出て就職したのは中堅のディベロッパーで、配属された北六甲台営業所に赴任した朝に、挨拶に行った所長席には、眼光の鋭い、体育教師さながらの巨体のS所長がおられました。決まりきった挨拶を始めるや、さえぎるように「よし、わかった。これが前に停めてあるカローラの鍵や。今から開発地の中をまわって、気がついたことを10個書いて、俺の机の上に置いとけや」。そう言うなり出て行ってしまいました。呆気に取られたまま、以来一年、電話の取り方、業者様との付き合い方、酒の席での身の処し方に至るまで、徹底的に仕込まれました。

そうしたある日、ある業者様が、すごい見幕で電話をかけてこられました。要は、私の手配ミスで資材部経由の発注ができておらず、このままでは違約金を請求されてしまう、というものでした。私の頭の中は真っ白になり、一方的に切られた受話器をただ、見つめているだけでした。

折悪しく、資材部とのトラブルが頻発し、今朝から所長は本社に談判に出向いたところでした。しばらくして帰所した所長は疲労の色も濃く、ぐったりとイスに身を沈めたままでした。意を決して、しどろもどろになりながら報告する私の顔を射抜かんばかりに凝視していた所長は一つ大きく息を吐いて、「さっき、本社で資材の部長とケンカ腰の談判をしてきたとこや。この話も昨日の内に聞いときゃなあ」。一呼吸置いて、「よし、判った。腹ぁ括った」、そう言うや受話器を取上げ、資材の部長に受話器越しに、何度も何度も頭を下げながら、何とか特別なルートでの納材の話をつけてくれました。

それから半年後、横浜に統括部長として栄転されることになった所長の送別会の席で、酒を注ぎに行った私の顔を所長はじっと見つめながら、今まで目にしたことのない優しい瞳で、「あの時、俺は、人間の顔の色はここまで青くなれるものかと感心しながら、お前の顔を見ていたよ。いろいろと大変だったろうけど、よく頑張ってついてきたなあ。本当にお疲れさん、ありがとうな」。そう言って、大きなあたたかい掌で握手をしてくださいました。

そのS所長も、先年に逝去され、雪の中の葬儀の場でも、私の右手には所長の右掌のあたたかさと、「ありがとうな」の言葉が耳に響いておりました。遠くの席から、改めて、あの時と同じ笑顔の所長の写真に、「こちらこそ、本当にありがとうございました」と声に出してお別れのご挨拶をさせていただきました。

島 幸司「父へ」

私は大学一年の冬、退屈な大学生活が嫌になり、大学を中退し、仕事をして、そして早く独立をして生きていこうと決心をしました。

決心はしたものの、父親に伝えるのがとても勇気のいることでした。というのも、父親は8人兄弟の次男で、戦中、戦後の貧しい中、大学行きを断念し、教員養成所を経て小学校の教員となった人でした。その当時はすでに学校長となっていましたが、若い頃は、大学卒の教員から差別的な扱いを受けてくやしい思いもしたそうです。そんな事情もあり、父は私達兄弟のすべてを大学に行かせることをとても大切に考えておりましたし、私が学校の先生に向いていると考え、期待をしてくれてもいました。なので、大学を中退し、民間の仕事へ就くことで、どれだけ父が失望するかわかっていたのです。

正月の帰省前、母にはそれとなく電話で伝えてから、意を決して実家へ帰りました。夜、実家のある五島列島の船着き場へ着くと、父が車で迎えにきてくれていました。男同士のぎくしゃくしたあいさつをしながら車中に乗りこむと、父が自分の若い頃の夢やなりたかった仕事について話をしだしました。私は、父は教師になりたかったのだと思っていたので、その夢の話を聞いておどろきました。そして最後に父から「お前には夢をかなえてほしい」と告げられたのです。殴られることすら覚悟していたので、厳しかった父からの思いがけない言葉に涙があふれてきました。

父は、退学ではなく、一年の休学の後、判断するようにと、私に復学する道まで与えてくれました。結果、私は一年後に大学へ戻り、一度就職した後、今の会社を創業し、独立するという夢をかなえることができました。これもすべてチャンスと復学する道を残してくれた父のおかげだと感謝しております。

創業してすぐ、事務所へ父を連れて行くと、社員さんたち全員の前で深々とおじぎをし、「よろしくお願いします」とあいさつをしてくれました。そして事務所を出て、私に「とにかく人を大切にしろよ」と言葉をかけてくれたのです。その姿勢と、言葉を聞いて、私はチャンスだけでなく、正しい価値観を父から教えてもらってきたのだと感じ、大きな勇気が湧いてきたのを覚えています。

男として見本となる父という存在、そしてあの冬の車の中での父の言葉が今の私をつくり支えています。親父、本当にありがとう。

原 文典「お母さんの子どもで良かったよ」

兄と私を生んでくれた母もすでに83歳になりました。私たちが50歳を過ぎたのですから、当り前なのですが、時の経つのは早いものですね。振り返れば母がいてくれたから現在があると思います。

私たちは兄弟で仕事を始め今年で34年目を迎えます。そのきっかけは母が女将として切り盛りしていた割烹旅館がオイルショックのあおりを受けて厳しい状況に陥ったからです。借金の返済ができない状況を何とかしなければならず、初めは親子で旅館の営業が終わってから深夜のアルバイトに出かけ寝ないで働きました。

しかしそれでも返済が追いつかず、さらにお金を稼がなくてはならなくなり、兄がビルの清掃の請負いの仕事を探してきたのです。家族離散になってはならないとの想いで、その仕事を始めることとなりました。それが現在の仕事の創業となったわけです。

生活の糧としての創業でした。当時兄が23歳、私が19歳です。世の中のこともわからないなかで物差しとしてきたもの、それは母の背中を見て感じてきたことです。私たち兄弟は幼少より家業の手伝いをしてきました。同級生が楽しく遊んでいた週末も、家業の手伝いをしたのです。当時の私にはとても辛いことでしたが、朝早くから夜中まで黙々と働く母の背中を見ると、自身が我がままを言ってはいけないと、子ども心に感じていたのではないかと思います。

また嬉しいこともたくさんありました。家業を手伝っていると周りの人に「あなたは偉いね」と褒めてもらえたのです。それは母からの「ありがとう」も同じです。その言葉が子どもの私を頑張らせていたのです。今思えば人一倍働くことによって人様から信用をいただくことが商売の原点であり、その喜びは「ありがとう」をいただくことにあるということを母が精一杯生きるなかで教えてくれていたんだと感じます。

このことが私たち兄弟の心の支えでした。「信用とありがとうをいただくために頑張ろう」と、この言葉を信じて我武者羅に働いてきました。あれから33年間、さまざまなことがありましたが、お陰様で地域ナンバーワンの企業となることができています。

努力をすることの意味と働くことの喜びを自身の背中や愛情で教えてくれた母にありがとうと言わせてください。「お母さんの子どもで良かったよ。ありがとう」

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