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第7回「心に残る、ありがとう!」体験談 贈賞式

最優秀賞 村田 敦子

小学生の私、今の私

優秀賞 大ノ木 あかり

恩師

神谷 健明

「母さん ありがとう」

今回も多数の応募をいただきました。そのなかから、厳正な審査を経て入選作10編を選び、2019年1月17日、グランドニッコー東京 台場において小檜山博氏(作家)、窪島誠一郎氏(作家)、金子和斗志氏(アイ・ケイ・ケイ株式会社代表取締役社長)による公開選考会を行い、上記のとおり決定しました。最優秀賞および優秀賞につきましては、「理念と経営」3月号に掲載いたします。



入選者
後継者は社員さんに支えられてなんぼ! 安積 希真
私の中の母の生き様 池田 浩
口でものを言えない、今は亡き、四つ足の長男へ 川中 伸行
育ててくれてありがとう 白鞘 直士
うらやましい 瀬戸 将之
あるお客様からの「ありがとう」 出口 泰之
父親 薮下 誠之
村田 敦子 小学生の私、今の私

私の父の仕事は、左官屋でした。コテを使って建物の壁を塗ったり、駐車場の土間を作る職人です。材料は壁材や砂等で、作業服はいつも汚れ、父の座る座布団はいつもザラザラして、とても嫌でした。天気の悪い日は仕事を休み、二日酔いで仕事を休み、そんな日は昼にギャンブルをし、夜にお酒を飲む。1年の半分位は、そんな事をしていたように思います。
当然生活費は足りず、その事で、母と毎日のように喧嘩をし、怒鳴声や灰皿を投げて茶の間の硝子が割れたり、時には母に手を上げる時もあり、子供の私と姉は、部屋の隅で母が殺されてしまうんじゃないかと恐怖でした。そんな父が大嫌いで、殆ど話をせず、私が結婚し同居しても仕事の仕方は昔と変わらず、熱がある、腹が痛いと言っては仕事を休んでいました。こんな人にはなりたくないといつも思っていました。
ある日、父が肝臓癌で余命一カ月と宣告され、悲しみより先に、バチが当たったんや……。と冷たい自分がいました。延命治療を受ける度に苦しむ姿と、日に日にやせ細っていく父を見て、本当に死んでしまう、私は全く親孝行していない。と気づき、昔の父を忘れたように、母や姉と看病しましたが、3年後、55歳で他界し、今もできなかった事に後悔しています。
数年経ち、現在の私は建築会社で働いています。入社当時、自分の営業で初めて新築住宅が完成し、お客様から「安心して住める家を造ってくれてありがとう」とおっしゃっていただき、嬉しく仕事に誇りを持った時ではなかったかと思います。
内覧会には、私の子供達にも見てもらい「お母さんの会社で建てたんやよ」と自慢したその時に、小学生の私と父の会話を思い出しました。「この家の壁、お父さんが塗ったんやぞ。こっちの家もや」と教えてくれました。私は「お父さんすごいね。このお家ずっとあるよね」と言っていました。父の携わった家は、私の自慢で、友達にもよく話していました。
今、私が建築の仕事をしている事は、偶然ではなく、あの時の父と仕事を誇りに思えたからだと気づきました。建築工事を完成する為には、沢山の職人さんが現場で作業して下さいます。暑い日寒い日関係なく現場を進めて下さいます。左官屋さんもいます。父が生きていてくれたら……と思う時もあります。
お父さん、職人さんは、私の自慢で、誇りです。その事に気づかせてくれて本当にありがとう。お父さんが手掛けた家、今もしっかりと建っているから安心してね。

大ノ木 あかり 恩師

私には大切な恩師がいる。それは、小学5、6年生の頃の担任の女性先生だ。
私は母を小6で亡くしている。その時ずっと支えてくれたのがこの先生だった。私の母はガンで私が小4の時から闘病生活で基本的に家には帰ってこれなかった。
家族は、父姉兄で上の姉が当時中学生。帰ってみんなのごはんを作るのは一番早く帰ってきた人がやっていた。一番下の私は部活をやって帰っても帰りが一番の事が多く、ランドセルをおろすとすぐキッチンへ向かい、栄養バランスなんて何にも分からないまま家族のごはんを作ってみんなで食べた。それが一年程たつとだいぶ母がいなくても家事ができるようになった。
そんな時に出会った恩師は私をずっと応援してくれた。
いつも「あかりは強い子だ」ってほめてくれた。
約3キロ歩いて帰る道で一人で帰っている時、同じ方向に帰る先生がよく内緒で車に乗せてくれて、家につくと後部座席にあるアイスボックスの中から冷凍食品をくれて「これは簡単でおいしいからあげる」と、何度も私の事を気づかってくれた。
そんな中、母は亡くなり目の前が真っ暗になった。母は治ると信じていたから、亡くなった事を受け入れられず母を憎む事もあった。それから私は毎日を家族と力を合わせ中学生になり恩師に会いに行った。その当時の事を先生は話してくれて知った。
母は自分の命の短さに気づき、先生に私の事を頼みますと伝えてきたそうだ。とても信頼できる先生に親子で甘えてしまっていた事を知り、「重荷だったね。先生ごめん」と伝えた。先生は、「なーに言ってんのよ!」っていつもの笑顔で手作りカレーを食べさせてくれた。
中学に行っても高校に行っても誰にも言えない悲しみを先生には吐き出せた。泣きながら手紙を書いた時もあった。それもいつも受け入れてくれあったかい返事をくれた。
今、大人になって感じるが人はツライ時ほど助けてくれた人を忘れない。そしてその時想った気持ちを忘れない。そのあたたかい気持ちを次は私が周りの人に伝えようと思う。
辛くて辛くて耐えられない時もあったけど、それがあったから気づけた気持ちがある。今は母がいなかったから何でもできる、強く生きられるようになった。でもいつも一人じゃなかった。
一番辛い時支えてくれた恩師に心からのありがとうを伝え続ける。そして今周りにいる人にも笑顔でありがとうを伝え続ける私でありたい。

神谷 健明 「母さん ありがとう」

小学校1年生の時のとある朝、目が覚めると私の左の黒目が無くなっていた。黒目が内側に寄って白目だけに見えたそうだ。
母親は大慌てで私を近くの眼科に連れて行った。結果、手術もしたが完治せず、分厚いレンズの眼鏡と右目に大きな絆創膏を貼り、半ば強引に矯正することに。当時の私には眼鏡と絆創膏が邪魔でしかたなく、眼鏡を投げ捨て、絆創膏を剥がしては母親に叱られていたなと今でも薄っすらと覚えています。
小学校高学年、周囲の目を気にする年頃となり、自分の左目が友達と違うことに大きなコンプレックスを抱くようになりました。正面から話しかけても視点が合わず、後ろを振り返られたり、寄り目と揶揄われたり、子ども心に大きなショックを受ける日々。
中学に進学した頃にはコンプレックスを覆い隠すかの如く訳も無く抗い、反発し、時には周りの人を傷つけたことも多々ありました。
当時の担任の先生からは、「何を苛立っているんだ」、「テストの成績は優秀なのに、お前のことがよくわからん」などと言われ、母親が学校に呼ばれることもしばしば。母親が頭を下げている姿を横目に、ふんぞり返って精一杯の虚勢を張りながらも心の中で「母さん、ごめん」と呟いていた。
何度も学校に呼ばれ先生から注意されても母親は私を叱りつけることはなかった。何故だろうと不思議に思っていたが、一緒にお酒を飲める年齢になって初めて母親の気持ちを知った。
少し酒に酔った母親が「出来ることなら私の目と交換してあげたかった。そんな目に生んでしまってゴメンね。健明が苦しんでいることはわかっていたから母さんだけでも味方になってあげようと思っていた」と。
涙を堪えることが出来なかった。自分より苦しんでいた人がいるなんて知らなかった。申し訳なかった。もっと強く生きなきゃと思った。

「母さん、ありがとう」

まだ少しコンプレックスを感じているけど、今では少し寄っている左目も母さんが愛情いっぱいに育ててくれた私の個性と思える様になりました。私も親となり、少しだけ当時の母親の気持ちがわかった気がします。

もらった愛を返す時がきた。

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