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第8回「心に残る、ありがとう!」体験談 贈賞式

第8回「心に残る、ありがとう!」体験談 贈賞式が行われた様子

今回も「心に残る、ありがとう!」体験談に多数のご応募をいただきました。
今年は新型コロナウイルスによる緊急事態宣言のため、2021年1月19日にオンライン生配信にて贈賞式が行われました。
今回は甲乙つけがたく、通常10作が選ばれるところ、11編の入選作が選ばれました。
その中から最優秀賞1編、優秀賞2編、特別賞1編が決定しました。

大賞発表

最優秀賞

「当たり前の日常にありがとう」

藤居 正樹 さん

優秀賞

両親へのありがとう

泰山 真吾 さん

「言えなかったありがとう。」

藤野 彰弘 さん

特別賞

産んでくれてありがとう

浅井 友子 さん

入選者

あなたの熱意のお蔭で、 今私はここにいます。

板倉 考佑 さん

厳しさと優しさにありがとう

小田 真弓 さん

今、 この時にありがとう

佐藤 かすみ さん

最期のLINE(ライン)

松邑 麻理子 さん

ある日のご婦人へ

宮副 武 さん

子供たちだけのために生きた母にありがとう

宮地 康一 さん

最期まで病と闘い続けた父と母の愛にありがとう

山田 秀二 さん

贈賞式の様子1
資料
贈賞式の様子2

大賞発表

最優秀賞

藤居正樹さんの写真

「当たり前の日常にありがとう」

藤居 正樹 さん

毎日、 朝五時に起きて歯を磨いて、 服を着替えて車に乗り込む。 朝陽を浴びて、 さわやかな空気を胸いっぱいに吸い込む。 生きていることを実感する瞬間だ。そして、 コンビニに寄ってお昼ごはんを選び、 職場に向かう。 白衣に着替えて、 一人ひとりの背中にコロコロローラーをかけながら元気よく挨拶をし、 朝礼へ参加する。 それからみんなでパンを造り、 笑顔で接客し、たくさんのお客様の笑顔を創り出していく。 これが、僕の日常だ。

ちょうど今から五年前、 急性骨髄性白血病という病に侵され、 これまで当たり前だった日常が奪われた。 朝陽を浴びることも、 外のさわやかな空気を吸うことも、 そして食べたいものを食べることさえもできなくなった。誰かにありがとうと言われることも、 自己成長を感じることも、 誰かの役に立っているという自己効力感すらも感じることのできない毎日。 感じるのは「治るのか?」という不安や、 抗がん剤による副作用による苦しみ、 死を身近に感じる恐怖だった。 そんな僕を支えてくれたのは、 家族はもちろん、 ピーターパンで一緒に働いてきた仲間たち、 友人、 恩師、 病院関係者の方々だ。 本当にたくさんの人たちに支えられて、 乗り越えることができた。特に大きかったのは、 僕は元々仕事大好き人間で、 ピーターパンが大好きだったので、 ピーターパンの仲間がほとんど毎日誰かが顔を出してくれ、 仕事の話をたくさんしてくれたことが本当に大きな生きる糧となった。 必ず生きて戻ってみんなにこの恩を返す。 それがどんなに辛い治療でも乗り越えるエネルギーとなった。

この病気になってすぐお見舞いに来てくれた会長から「病気に感謝しろ」 とひたすら言われていた。 はじめはどうしてもそんな気持ちになれず、 なんでおれが、 と悔やんでばかりだった。 でも、 時間がたつにつれて、 この病気が自分に与えた意味は何だろうと考えるようになり、 家族の大切さや感謝の気持ち、 食事が美味しいのは当たり前だと感じていた自分、 たくさんの人に支えられて生かされている自分、 改めて仕事が、 ピーターパンという会社が、 そこで働く仲間が大好きな自分、 仕事を通してたくさんの人を幸せにしたい自分など、 病気になったからこそ、 気付くことができたことがたくさんあった。

今、 当たり前に過ごせている日常に感謝の気持ちを持ってこれからの人生を生き、 すべてのことに感謝ができる、 素直で真っ直ぐな人となり、 多くの人を幸せにする人生を生きる。

優秀賞

秦山真吾さんの写真

両親へのありがとう

秦山 真吾 さん

私は父の顔を写真でしか知りません。 父と過ごした記憶がありません。 私の父は、 私が生後七カ月の時にこの世を去りました。 私には二つ上の兄がいます。 母は女手ひとつで私たち兄弟を立派に育て上げたのです。 弟が産まれてこれからという時に一人きりになってしまった母の不安や絶望、 その時の感情は想像することはできません。 しかし、 母親の偉大さを感じることはできます。 二四時間三六五日、 毎日、 子育てをしながら父の残した美容室を切り盛りしていました。

私が小学校二年生の頃、 美容室の経営が上手くいかなくなり廃業、 母はパートで働くために引っ越しを余儀なくされました。 仲の良い友人との別れ、 住み慣れた家との別れ、 当時の私はその感情を母にぶつけていました。 そうして母は職を変え、 私たち兄弟は学校が変わりました。 その後、 新しい環境に馴染めず、 人間関係で上手くいかず、 兄弟揃って不登校になり、 小学校、 中学校と、 私はほとんど行きませんでした。 そんな中、 中学の恩師の言葉により気付かされ、 それをきっかけに通信制の高校に通い始め、 三年で卒業し今の職場に勤めています。

振り返れば、 母にはいつも迷惑しかかけてきませんでした。 そんな私に対して母はいつも応援してくれていたのです。 幼い時も、 引っ越しで友達と別れる時、 不登校になった時、 通信制高校に通っている時、 今の職場に就職した時、 そして今も変わらず応援してくれています。

母に聞いたことがあります。 「どうしてこれだけのことができたの?」 と。 母は一言、 「親だから」 と答えました。 私は母の偉大さを感じずにはいられませんでした。

現在二六歳、 こうして働き、 学び、 生きていけるのも母のおかげです。 幼少期、 父の残した美容室その経験があったからこそ母は今でも美容室で働いています。 父との記憶はありませんが、 父との繋がりは確かにあります。 父がいないことを恨んだ時期もありました。 しかし、 二人の子供と愛する人を残して亡くなった父の無念の想いを想像すれば、 その苦しみを感じることができます。 父の分まで強く生きた母の想い、 父が成し遂げられなかった想い、 この二つの想いが私を強くしてくれているのだと感じています。 両親が出会ってくれたこと、 私を産んで周りの人に感謝できる人間に育ててくれたこと、 今も変わらず応援し続けてくれていること、 全てに感謝します。 母の強さを見て育った私だからこそ、 父の成し遂げられなかった想いの分まで生きていけます。

お父さん、 お母さん、 私を強くしてくれてありがとう。

藤野彰弘さんの写真

「言えなかったありがとう。」

藤野 彰弘 さん

私は岡山県倉敷市玉島という町で育ちました。両親共に仲良く、兄と弟と共に幸せに育ちました。

喘息で体が弱かった父は入退院を繰り返しながら仕事に行き、母はそんな父の面倒を見ながら我々三人の息子を育ててくれました。両親共に苦労人でしたが「苦しい時こそ笑っとけ」 という信条の元、いつも家庭は明るくにぎやかでした。地元の高校を卒業後、一浪して大阪の大学に進学し、そのまま店舗建築の会社に就職しました。

「大きな仕事がしたい!」

そんな願い通りに設計から施工監理までトータルで任され、あこがれだった海外での仕事も経験させてもらいました。一方で大企業が故の非情な体質も目の当たりにしました。 社長交代による方針転換により大リストラが強行され、活躍されていた先輩や直接仕事を教えてくれていた上司が次々と解雇され、失望と共に私も会社を退職することに決めました。

五年間培ってきた経験とノウハウがあれば何でもできるという根拠のない自信だけで独立したものの、 運転免許しか持たない生意気な二七歳の若造に仕事が入ってくるはずもなく、 営業資金という名目の借金だけが膨らむ一方で、 私の周りからは誰もいなくなってしまいました。借金返済のため、 車の部品工場や魚市場、 引っ越しのアルバイトなど、 朝から晩まで働きましたが、お米も買えない生活は続き、 ついに給料日の二週間前で財布の中身が二七円という事態になってしまいました。会社を辞める事に反対だった両親には借金の事も内緒にしていたため悩みましたが、 母親にお金を貸して欲しいと電話をしました。 するとその日の午後、父が一人で私の住む広島まで来てくれて、近くのファミレスで昼食をご馳走してくれました。悔しくて情けなくて顔を上げる事ができない私の前で、 他愛のない話をする父は、 何があったのかは何も聞かず、ただ最後に黙って茶封筒を手渡してくれました。父の車が見えなくなった後、封筒を開くと、 そこには一〇万円が入っていました。

そんな父が持病の喘息の発作で突然亡くなったのは、私が三一歳の時。 ちょうど借金完済の半年前でした。借金を返し終わったら全てを話す、そして直接ありがとうを伝えると心に決めていたのですが、 間に合いませんでした。

生前、 父は「アイツなら大丈夫」と心配する母を何度もなだめてくれたそうです。父親の分も母親に孝行をする。それが焼かれていく父と交わした私の約束です。

特別賞

浅井友子さんの写真

産んでくれてありがとう

浅井 友子 さん

昭和三十九年東京オリンピックの年に潤は産まれた。潤が産まれる迄の月日は㐂よろこびの陰に常に不安がつきまとっていた。受診した時の医師から言われた言葉は「高齢出産の上に子宮筋腫が大きいので胎児が育たないかも知れないので何時流産するか分かりません」との事だった。日常生活は神経質になり、つまずいたり転んだりせぬよう靴は平たいものを履きサンダルや下駄は一切禁止、身体は冷やさぬよう買い物は重たい物を持たぬよう、高い所の物の上げ下げはせぬようにと夫は騒うるさい程に注意して来た。それでも体調に異変を感じ受診すると即入院。三日間絶対安静だった。流産の言葉が頭をよぎる。出産は帝王切開、その上、二人目の出産は望めないと宣告された。慎重に慎重にと生活し、胎動を感じた時の感動は胸がどきどきした事を覚えている。予定日の前日に帝王切開で出産したが全身麻酔の為、感動の産声は聞いていない。母乳は出ず乳を欲しがり、大声で泣き叫ぶ我が子の元気な声にミルクを与えたら、情けなさに自分で泣いてしまう状態だった。

元気に成長し小学校に入学する前夜、産まれて来るまで大変だった事、産まれてからは中耳炎、はしか、おたふく風邪、水疱瘡、右手首の骨折と医者通いで忙しかった事などを話して聞かせた。神妙な顔で聞いていた潤は「うーん……そうだったの……産んでくれてありがとう。親孝行するよ」と笑っていた。社会人になって有言実行、本当に良くしてくれた。初孫に男児が出来て「これで親孝行の一つが出来たね」と喜び、その後は温泉旅行に三回招待してくれた。夫とその度にありがとうと好意に感謝し、私は本当に流産しなくて良かった、産まれてきてくれてありがとうと㐂んでいだ。

そんな平穏な我が家に突然襲った悲劇。風邪以外は病気等した事の無い潤は平成二十四年七月二四日の朝、寝たままの姿で苦しむ事なく突然死。知らせを聞いて駆けつけると、まるで眠っているような安らかな顔。原因が分からないので解剖する事になった。結果は眠ったままで発生したくも膜下出血で即死だったと判明した。一人息子を突然失い、目の前が真暗に。夫は「俺が身代わりになりたかった」と初めて夫の涙を見て言葉も出なかった。四八歳の若さで高齢の両親と愛する妻子を残して旅立ってしまった。だんだん物忘れが出て来た現在でもあの「産んでくれてありがとう」の言葉は永遠に私の脳裡から消え去らないと信じている。これが寿命と云うものなのか……。

選評

選考委員長

小檜山博氏の写真

作家

小檜山 博 氏

錯覚する現代社会への警鐘

入選作すべてに「一人では生きることはできない」という主題が通底され見事である。
板倉考佑さんは上司と仲間への感謝。小田真弓さんは感謝の対象が厳しさと優しさというのが特異。佐藤かすみさんの「今、この時」という発想は独特であり、松邑麻理子さんは感謝の言葉を受けてその重みを知るというユニークな作品。宮副武さんの人間の心のありようの捉え方への熱意は秀逸である。宮地康一さんは母への感謝がよく描かれ、山田秀二さんは父母の生き方や愛情が伝わってきた。浅井友子さんの「産んでもらえた」という感謝は存在の原点といえる。泰山真吾さんの母の「親だから」との言葉の持つ意味は深い。藤野彰弘さんの作品は父への感謝が増幅されていく迫力があった。藤居正樹さんの「支えられて生きる」との認識と、幸福とは当たり前の日常のことだと教えた会長の言葉が素晴らしい。
これらの作品は、「お金さえあれば一人で生きていける」と錯覚する現代社会に美しい矢を投じるにちがいない。応募された皆様に深い敬意を表します。

選考委員

窪島誠一郎氏の写真

無言館館主・作家

窪島 誠一郎 氏

「ありがとう」の大切さを再認識

どれもが「ありがとう」に満ちていて、言わんとすることがジンジンと届きました。
最優秀賞、藤居正樹さんの作品は、一歩間違えばいつ命を落とすかわからない、病床にある方の切なる思い、希望とともに、「当たり前の日常」がいかにありがたいかが伝わりました。同時に多くの人の厚意と助けがそれを支えているということを、しみじみわからせていただきました。
藤野彰弘さんの作品は、ありがとうの大切さを再認識させてくれる、大変深い、重いテーマを与えてくれました。僕自身もまた、ありがとうと告げることなく別れてしまった、旅立ってしまった、そういう方のなんと多いことかと気付かされました。
泰山真吾さんの作品は、苦労して育ててくれた両親に改めて感謝の頭を垂れているのがよかったです。文中の「親だから」という一言は、すべてを凌駕するほど心に響きました。
今年もたくさんのことを本賞が教えてくれました。審査の末端に座らせていただくことができて幸せでした。

金子和斗志氏の写真

アイ・ケイ・ケイ株式会社
代表取締役 会長

金子 和斗志 氏

ありがとうの意味と価値

私はこれまで、「ありがとう」というのは相手に言葉で伝えなければありがとうにはならないと思ってきました。ところが今回、選考中に窪島先生が漏らされた「いろんな方々にありがとうと言いたくても言えずに来たことを反省している」との言葉に、「そうか!」と気づかされました。
振り返れば、私もこれまで数多くの方々のお世話になり、助けていただきながら、全ての方にありがとうを伝えることができずに今日に至っています。今後の人生、ありがとうと伝えるべき時にきちんとありがとうを伝える、そうしたことを心掛けながら生きていきたいと思います。
「当たり前の日常にありがとう」は、まさにコロナで当たり前のない時代となった今に通じる作品です。「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ、只一燈を頼め」―江戸時代の儒学者・佐藤一斎の言葉です。多くの人が先の見通せない時代を一生懸命に生きている。その中にあっても当たり前の日常にありがとうが言えるというのは、素晴らしいことだと思います。あらためてありがとうの意味、価値を学ばせていただきました。